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げのくら ~Genome Classic~ ってなに

げのくらってどんな集まりなの?

genokura.png
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 はい、こんにちは。創作ユニット「Genome Classic(ゲノムクラシック)」または「げのくら」の、藤 秋人(@akihito_fuji)です。

 一個前の記事にて、当ユニットのマスコットキャラ「あびるちゃんですこんにちは」で語られたとおりです。

 それ以上のモノは、おいおい足したり引いたりしていくことになるのでしょう……たぶん。

 私と、近藤商会@開発室さん(@ponpokoponM3)の二人で、文芸をひとつやっていこう。そういう趣旨で始まったのが、この「げのくら」になります。

 ちなみに、正式に発足したのは昨日で。動き出したのは今日になります。

――昨日の今日動き出した創作ユニット、それが私達「げのくら」なのだ!

 じゃあ、なんで始まりが二〇〇五年なの? ここからは完全に余談なのですが、前振りが気になる人もいますよね。

 このブログ「げのくら」ですが、以前は「日報げのくら」という名前でした。その頃……近藤さんと私と数名でブログURLにも書いてあるCulturemakerという総合創作サークルをやっていました。

 そこで定期的に流していた広報紙と、広報メールマガジンの名前が「Genome Classic(げのむくらしっく)→げのくら」というものでした。

 今でこそ、私は東京都内某所に。近藤さんは札幌市某所と別々の場所に住んでいますが、元々は同じ札幌市内に住んでいました。

 ちょうどその頃、北海道大学(所在地:北海道札幌市)がポストゲノム研究所と言う施設をボーン! と建てたわけですよ。

 サークル名が志高いことに「Culture=文化 Maker=作る者」とやたら高尚だったので、件の研究所の名前にあやかって「遺伝子の奥底にある潜在的な創作意欲をうんぬんかんぬん……」と。案を出したのは私だった気がするのですが、それに意味づけを行ったのは、当時のコアメンバーだったような気がします。

 今は、私と近藤さん二人になりました。しかし逆に、あの頃からこの二人が高校時代から「比較的、創作や文芸。表現活動に熱心だった」というのが今日まで続いた結果。「ひとつまた組もうぜ」となり。このブログを「げのくら」と改め、再出発したというのが実情です。

あびるちゃんmini

 ちなみに、このあびるちゃんの様に文芸に狂ってる時は常時二人ともこんな感じなので、対戦よろしくお願いします。面白いもの書いていくよ!

あびるちゃんですこんにちは

あびるちゃんmini
こんにちはあびるちゃんです
わたしはぶんげいのあれです あれ ぶんげいそのものです
まんねんひつでかくのです わたしは あびるです
いまじぶん ぶんげい をやるひとは くるってる とかいわれかねませんが ひてい はしません
かくのです かくのです げんこうを つみあげて くずして みち にするのです
かかずば みちには ならないのです
あびるちゃんです ぶんげいのだーくさいどです
あびるちゃんです ぶんげいのたいこをたたくのです
あびるちゃんです ぶんげいのとびらをひらくのです

くらえ まんねんひつ あたつく

ぺんはけんよりもつよいのです

ぶすぶす

今朝の肉(コラム)

カテゴリ「肉」 それは深い深い意味が


ない


18年くらい前に自分がほざいたことらしい。

 今回ゲノムクラシック「げのくら」の再起動にともないこの肉に関してちょっと考えようかなと思う。
 そもそも、ふぐの話しからスタートしていて。なぜに人類はふぐを食おうとおもったのか? 的な、意味合いを含んでいる。
 人間が生きるのを満たすならあんな危険なものは食わなくて良いのだ。
 でもたべる。それがこの土地に生きるもののさだめだろうか?

 しかし僕がいる場所は北海道なので、ふぐ屋さん、は余り見かけない。たぶんあるのだろうけど、僕は平民なので高級料亭系の看板を道端から発見することができないのだ。

 なので、食文化の複雑化は文化そのものの高文脈化なのではないか?

 北海道には高文脈。つまりA級グルメの類があまりない。B級が多いのです。
 イタリアンでもやっぱりB臭いのだ(良い意味でね)
 フレンチのレストランはあるにはある。けど庶民派としては遠い感じがする。

 北海道は観光地として隆盛きわまる。
 タワーマンションはどうやら内地の金持ちどもがたまのやすみにこっちに来てすごすセカンドハウスらしい。
 そこに地元の人間としてはなにか肉感がないのです。実体感がないのです。

――それが「肉」です。

 色々かいたけど、当ブログ共著者の藤氏の夢の中で僕が振り返りざまに「肉」といったのが発端らしい。意味不明だ。

悪に憧れた子供だって居る

 今日は、童心に帰って…… むしろ今を去ること十数年前の気持ちで物を書こうと思う。よくよく考えると、 私が物を真剣に書こうと思ったのも丁度この頃だ。これから書くことと、何か因縁があるような気もする。
 唐突な話だが、私は今も昔も、悪役と言う奴に深い憧れと尊敬を抱いていた。もっとも悪役と言うだけあって、 現実世界の悪人や独裁者が好きなわけではない。


 映画、小説、ゲーム、アニメ諸々に出てくる悪役が好きなのだ。現に、つい六年前までは悪の科学者か、 世界を敵に回す何かになりたいと心の隅で考えていたわけで。そう言ってしまうと、自分がトンでもなく危ない奴に思えてくる。どうなんだろう?


 まだ自分の心の裡も説明出来ずに、暴力や暴言、そうでなければ不器用な行動でしか表せなかった頃、 ただ表現しようとして書いた出来損ない達が、私を物書きの道に進めてくれたのではないだろうかと最近思うようになった。

 子供は誰だって、正義の味方や愛の天使に憧れるものだ。


 今も覚えている私にとってのヒーローは、宇宙刑事やら戦隊モノだった。そう言って反論する友人は居ない。だが、 私が次のような事を言うと彼らはどうして? と聞き返してくる。


 本当に眩しかったのは、秘密結社ショッカーであり、死ね死ね団であり、スターウォーズにおける銀河皇帝とダースベイダーであり、ガルマン・ ガミラス帝国であり、またDr.アルバート=ワイリーである。


 彼等は眩しい。


 最初に共感したのはショッカーだった。理想の為にこの身すら捧げると言う危うげな信奉、 場合によっては狂気が安っぽい正義なんかよりも数万倍尊く見えたのだ。無論、歴史を学び純粋な学問としてではないが、 五年以上近代~現代史を研究した身として、ショッカーの論理に惹きつけられた訳ではない。
 次に、死ね死ね団の復讐心に酔った。レインボーマンと言う特撮ヒーロー番組の敵組織であった彼等は、太平洋戦争中、 旧日本軍に家族や恋人を殺され、その無念を日本人を皆殺しにすることで死んだ者達を慰めようとしている……  戦争が過去の物になりつつある時代設定の中にも関わらず、戦い続けるその意思に酔ったのだ。もっとも、 それは只終われば虚しい実の無い戦いである。


 あと二つについては、省く。有名な方々であるし、方々彼らの理想なり何なりは公表されているのでわざわざ書く必要性を見出せない。


 そして、最後に。最近ようやく気づいた事がある。ファミリーコンピュータの時代から続いてきたアクションゲームシリーズであるロックマン。 その初代~Xシリーズに至るまで、意思を持ち、人間社会に奉仕するロボットとそれを使役する人類に挑み続けた孤独の天才、 ドクターアルバート=ワイリーその人の信念・執念、自己犠牲。瓦礫の山に積み上げる存在意義の追求に悪の究極を見た。


 かの作品世界では、回を増すごとに人間はロボットに依存を深めてゆく。それは、物語の性質上、 性善説とテクノロジーによって支えられた調和社会に対する宣戦布告であり、虐殺の道であるかのように描かれる。そして、 プレイヤーは仕向けられた善意の戦士であるロックマンを駆使し、悪の科学者である彼はロックマンに破れ、許しを乞う。
 だが、彼は手を変え品を変え、挑み続ける。仕組まれた善意の醜さを打ち砕こうとするかのようにも見える大掛かりで、 いつだって命を投げ打つ覚悟で。彼がそこまでして成し遂げようとするのは何なのだろう?  そこに貫く悪は誰よりも尊い悲壮な自己矛盾との葛藤があるように私には見えたのだ。


 世界征服? 無敵のロボット軍団? ハッ、そんなのどうでもいい。何故、お前達はその機械達に全てを委ねようとする? ロボット三原則、 思考調整、心理学からのアプローチによるAIの設計…… 見よ! 彼らとてやはり人間ではない、人間でさえ殺しあうと言うのに、 彼等の心は余りに脆く、書き換えられたロジックは既に良心の欠片もない。
 今度も、私は敗れるだろう。それでいい、だが次も私は挑み続けるだろう。この命に代えても成し遂げなければならないことは幾らでもある――


 と、言う夢を見た。つい最近のことである。夢の中で白衣をはためかせ、立っていた博士の目の前で、 腕に内蔵した機関銃を彼に向けるブルーが眩しい自称ロックマンの冷たい人工眼と一瞬目が合った。
 恐ろしい、そう思った。目の前のロボットは武装解除せよと無機質な声で繰り返している。博士は言った、 あれはつい三十秒前まで雄弁に悪を打ちのめすと演説していたと。そして、 こちらが返事を返さなければルーチンに従ってこの台詞を繰り返すのだと。
 怖いか? そう聞かれた。何と答えたかは覚えていない。博士は叫んだ、作られた正義に張り合おうとは思わない、 その機械面粉々に砕いてやる。振り上げた手と共に大型垂直離陸重戦闘機が何機も現れた。
 エンジンの排気が博士の白衣をバサバサとはためかせた。その表情は何故か悲痛と葛藤に満ち満ちたものだった。何故だ?  何故なのだと自問自答しているようにも思えた。自称、正義のロボットは戦闘機相手に銃撃戦を繰り広げていた。 博士の声が聞こえたような気がした。


 悪を貫く事は、誰もが賛美する正義よりも難しく、尊くまた理解されない孤独の戦いなのだろう。だから私は憧れているのかも知れない。 そんな人間になりたいと心のどこかで思っているのかも分からない。ただ、大人になった私は筋の通った悪に憧れるようになった。
 子供の頃からずっと、あの悪の科学者が大好きだった。

[出典] 筆者、藤 秋人個人サイト日記2/21より転載 → web: The delutinaly revolution
ENTER → 左メニューフレーム内 日記 → 2007/02/21

一人暮らしで風邪

 

 こんにちは、CM運営チームの秋人です。 

 

 

 十七には折角の休みなので、色々好きなことをして遊ぼうと画策していた。主に、 近所の図書館に出かけて布団にくるまりながら本を読んだり、 或いは折角契約したものの休みの日でさえまともに見ないCATVを見ても良かった。

 前の日は、職場での飲み会だったので、休日を満喫するつもりで前の日は家に帰るなり着替えて寝てしまったのだ。ところが。

 ところがだ。
 金曜の昼間に喉が痛くなり、風邪かも知れないとオフィスでずっとマスクをつけていたのだが、 杞憂に過ぎないだろうと思っていた。仕事が終わり、飲み会が終わり、 眠りについて土曜日を迎えた時に杞憂が現実の物になるその瞬間を目撃したのである。
 いや、この言い方は正確ではない。正確には目撃ではなく、体感である。

 そう、風邪を引いた。目が醒めた瞬間から、いつもと違う決定的な倦怠感。頭と喉が焼けるように痛い。それだけではない、 鼻が詰まって息が出来ない。では致し方なく口で呼吸をしようとすると、今度は喉が一層強い痛みを訴えてくる。

 風邪だ、しかも相当症状は重くなっている。これは不味い。

 慌てて常備薬を服用し、食べたくは無かったが朝食を摂り、眠気に任せて土曜の一日は潰えた。日曜になって、 状況は好転したがそれでも明日の就業への不安は尽きない。
 ともあれ、半完治に至った以上は出勤せざるを得ず、明日に備えなければならない以上、大事を取って眠るしかない。

 そんな週末、ふと思ったのは辛い時に一人きりと言うのは案外寂しいものだと言うこと。それを嫌と言うほど味わった。

 

* 筆者サイト日記より転載→ 筆者Web (こちら)